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教員リレーエッセイ第11回『文学のことば』


【文学のことば 】
 私は長野県立大学で英語とイギリス文学を教えています。英語を教えることはもちろん大好きですが、専門は英文学です。英語が好きというのはまあ分かるけど、文学が好きって、どういうこと?文学なんか読んで、何になるの?と感じる人もいるかと思いますので、私がどのようにして文学に出会ったのかをお話ししましょう。
 私が英語を好きになったのは、高校生のときにアメリカのシンガー・ソングライター Billy Joelの歌にはまったからでしたが、文学に出会ったのは大学受験に失敗して浪人になってからでした。私は高校生の時からスピーカーの手作りが趣味でしたので(当時はそれほど珍しくありませんでした)、大学受験では理科系に進もうとして、現役、一浪と電子工学科を受験しました。理科系を志望したのは、父親が自分と同じように法学部に行けとうるさく言うからでもありました(父の言う通りにしたくなかったから)。ところが、結局ことごとく失敗して二浪になりました。「だから言わんこっちゃない」という父の冷たい視線が辛かったです。その間、数学や物理の成績はあまり伸びず、英語と国語だけが伸びてきて、予備校の先生から「君はどう見ても文系向きだよ」と言われ、とうとう二浪目で文転することになりました。絶望的な気分でした。
 でも文系に行って、何をする?やりたいことなんかないぞ、ということで、暗澹たる気持ちで予備校の文系クラスに入りました。4月の初め、英作文クラスの最初の授業の日に教室で待っていると、英作文担当の先生が入ってきました。ジャズ・トランぺッターのマイルズ・デイヴィスそっくりの恐ろしい風貌の先生で(日本人ですが)、自己紹介もしないで黒板に一つの詩を書き始めました。

 いかりのにがさまた青さ
 四月の気層のひかりの底を
 唾(つばき)しはぎしりゆききする
 おれはひとりの修羅なのだ
 風景はなみだにゆすれ
 かなしみは青々ふかく
 ああかがやきの四月の底を
 はぎしり燃えてゆききする
 おれはひとりの修羅なのだ
 まことのことばはここにはなく
 修羅のなみだはつちにふる

 これは宮沢賢治の詩「春と修羅」からの抜粋(しかも行を入れ替えてある)でした。英作文の初回授業に日本の詩ですから戸惑いましたが、この詩には何か心をぐっとえぐるようなものがありました。そしてすぐにではありませんが、私はこの先生に心酔するようになり、「もう俺も英語の先生になろう、それで俺みたいに勉強で困っている人の助けになろう」と思うに至りました。論理の飛躍もはなはだしいのですが、これで私の人生の方向は決まりました。そして今、本当に英語の先生になり、40年が経とうとしています。人のこころが乾いているとき、ことばはその奥底にまでしみ込んでいきます。
 私がこの年に出会ったもう一つの詩は、中原中也の「少年時」でした。

 黝(あおぐろ)い石に夏の日が照りつけ、
 庭の地面が、朱色(しゅいろ)に睡(ねむ)っていた。

 地平の果(はて)に蒸気(じょうき)が立って、
 世の亡(ほろ)ぶ、兆(きざし)のようだった。

 麦田(むぎた)には風が低く打ち、
 おぼろで、灰色だった。

 翔(と)びゆく雲の落とす影のように、
 田(た)の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿——

 夏の日の午過(ひるす)ぎ時刻
 誰彼(だれかれ)の午睡(ひるね)するとき、
 私は野原を走って行った……

 私は希望を唇(くちびる)に嚙(か)みつぶして
 私はギロギロする目で諦(あきら)めていた……
 噫(ああ)、生きていた、私は生きていた!

 確か予備校の国語のテキストに載っていたのだと思いますが、自分の心情をこれほど的確に表現してくれることばがあることに驚きました。私は日本文学研究者ではないので正しい解釈かどうかは分かりませんが、「翔(と)びゆく雲の落とす影のように、/田(た)の面(も)を過ぎる、昔の巨人の姿——」というのは、自分を責めるように迫ってくる父親の姿だろうと思います。中也は山口県の郷士の長男で、将来を大いに期待されたのに文学にかぶれ、親を失望させて東京に出て行ったような人です。私も父親の期待をさんざんに裏切ってきた人間だったので、まるでフロイトの言う超自我のように、父親の影がおそってきて人生を暗くする心情はよく分かりました。絶望して突っ走ることで、かろうじて生きている実感を得るというのも、よく分かります。こうしたことばに接しているうちに、私は文学の中に入りました。まさに「中に入った」という感じでした。
 その年、英文科ばかり受験したら、何とか某大学に合格することが出来ました。入ってからは、自分でも詩を書きながら(ノート2冊分くらい書きましたが、結局捨てました)、いろいろな国の小説や詩を読みました。特にロシア人作家ドストエフスキーの『罪と罰』のラスコーリニコフ、ドイツ人作家ヘルマン・ヘッセの『デミアン』のエーミール・シンクレール、アメリカ人作家J. D. サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて(The Catcher in the Rye)』のホールデン・コールフィールドなど、自分の歳に近い主人公たちのことは、まるで自分自身のように感じながら読みました。中原中也の詩は、すべて読んだと思います。フランスの詩人、アルチュール・ランボーやポール・エリュアールの詩も好きでした。
 始めから企業に就職する気はさらさらなかった私は、大学院に進んで英文学研究者になりました。40歳台の半ばまでは、ウィリアム・ブレイクというイギリスの神秘主義的な詩人を研究していましたが、ブレイクが特殊なキリスト教思想を持っている人だったこともあり、キリスト教の勉強もすることになりました。イギリスは(国民がどの程度熱心な信者かどうかは別として)キリスト教国ですから、英文学を学ぶにはキリスト教や聖書の勉強もある程度行う必要があります。私は信者ではありませんが、研究のために、また好奇心にも促されて、若い頃から聖書はある程度読んできました。
 読んでみると、聖書には不思議なことばや印象的なエピソードがたくさんあります。まずはイエス・キリスト(救世主イエスという意味。新約聖書の中では、生地にちなんでナザレのイエスと呼ばれています)の次のことばを見てみましょう。イエスが悪魔の誘惑を受け、空腹ならばこれらの石にパンになるよう命じたらどうだとそそのかされた場面です。イエスは次のように答えます。
 『人(ひと)はパンだけで生(い)きるものではない。神(かみ)の口(くち)から出る一つひとつの言葉(ことば)で生(い)きる』と書(か)いてある。
 (『マタイによる福音書』第4章、第4節)
 「書いてある」というのは、旧約聖書に書いてある、ということです。私は信者ではないので、このことばも文学的にしか解釈できないのですが、「パン」とはからだの栄養、つまり食べ物、食うという行為、広げて言えば経済活動と言ってもいいでしょう。それに対して「神(かみ)の口(くち)から出る一つひとつの言葉(ことば)」は、心の栄養、我々のこころを育む何かだと考えればよいかと思います。それは人の口から出ることばでも、文学のことばでも良いと私は思います。われわれは物を食べなくては生きていけません。それと同時に、こころを支え、満たしてくれる何かがなくては、やはり生きられない存在だということだと思います。
 もっぱらパンの世界(経済活動の世界)で生きている人は、よく「言葉はツールだ」などと言いますが、ことばは単なる道具ではありません。宮沢賢治や中原中也のことばが暗闇にいた私を照らしてくれたように、われわれの心を養い、わたしたちの生に意味を与えてくれる、神聖不可侵な何かだと私は思っています。『ヨハネによる福音書』の出だしには、次のように書かれています。
 初(はじ)めに言葉(ことば)があった。言葉(ことば)は神(かみ)と共(とも)にあった。言葉(ことば)は神(かみ)であった。(第1章、第1節)
 イエスのことばには非常に心に残るものがありますが、『ヨハネによる福音書』の姦淫の女のエピソードにあるイエスのことばは、最も忘れがたいものと言っていいでしょう。イエスはユダヤ人であり、ユダヤ教社会の中に生きています。ユダヤ教の律法学者や、原理主義的なファリサイ派の人々は、何やら新しい教えを唱えて回っているらしいイエスを陥れるため、彼を罠にはめようとします。彼らはわざわざ姦通の現場で捕らえた女を連れてきて、イエスにこう尋ねます。
 「先生(せんせい)、この女(おんな)は姦通(かんつう)をしているときに捕(つか)まりました。こういう女(おんな)は石(いし)で撃(う)ち殺(ころ)せと、モー
 セは律法(りっぽう)の中(なか)で命(めい)じています。ところで、あなたはどうお考(かんが)えになりますか。」(第8章第5節)
 ここでイエスの言ったことばがすごい。旧約聖書に書かれた掟に逆らうようなことを言えば、宗教的反逆者として捕らえられかねません(相手はそれを狙っています)。しかし「許し」の精神を重んじるイエスとしては、「旧約聖書の教え通りに、石で打ち殺しなさい」とは言いたくないでしょう。そこでイエスはこう言います。「あなたたちの中(なか)で罪(つみ)を犯(おか)したことのない者(もの)が、まず、この女(おんな)に石(いし)を投(な)げなさい。」(第8章、第7節)イエスは皆に背を向けてしゃがみこみ、地面に何かを書いています。誰のことも見ようとはしません。
 ここにはものすごい知恵が秘められています。旧約聖書を否定はしない、しかし女を打ち殺すこともさせない、そういう一言です。われわれは誰しも、一つや二つは悪いことをした記憶があります。イエスのことばを聞いて、女を連れてきたユダヤ人たちは、皆自分の悪い行いが思い出され、石が投げられません。しかし、もしここでイエスが彼らの方を見ていたとしたら、彼らの中には悔しくて意地になり、「俺には罪などない。こうしてやる」とばかりに石を投げ始める者が出るかもしれません。彼らの自尊心を刺激することを避け、静かに自らの胸に問うことを促すために、イエスはしゃがみこんで誰のことも見ようとしないのです。
 ユダヤ人たちは、一人、また一人と、その場を去ってゆきます。その間、イエスは目を上げません。やがてしばらくしてからイエスが目を上げると、そこには連れてこられた女だけが立っています。イエスは問います。
 「婦人(ふじん)よ、あの人(ひと)たちはどこにいるのか。だれもあなたを罪(つみ)に定(さだ)めなかったのか。」女(おんな)が、「主(しゅ)よ、だ
 れも」と言(い)うと、イエスは言(い)われた。「わたしもあなたを罪(つみ)に定(さだ)めない。行(い)きなさい。これからは、もう罪(つみ)を犯
  (おか)
してはならない。」(第8章、第10-11節)
 聖書の注釈書を見ると、罪に対して寛容すぎると考えられたからか、このエピソードはいくつかの写本では採録されなかった、と書かれています。しかし私はこれを読んで、ああ、これがキリスト教なんだ、と思いました。これほどの知恵に満ちたことばや振る舞いを、私は他に知りません。このエピソードを皆さんに紹介しているのは、皆さんを信者にしたいからではなく(私自身、信者ではありません)、SNSで誹謗中傷のことばが飛び交うような現代にあって、「われわれに人を裁く資格があるのか」ということを考えて欲しいからです。SNSで人に誹謗中傷のことばをぶつける人は、自らの罪を顧みることもなく、平気でことばという石を人に投げつけます。その行為自体が罪であり、人のこころを傷つけ、下手をすれば人を殺すような行為であることも認識できずに、です。「正義は我にあり」と思っている人間ほど怖いものはありません。「自分は本当に正しい人間か」という自己反省を伴わない正義感は、人を悪魔にします。ただ自分がすっきりするために、匿名で誹謗中傷という石を投げつける行為の、一体どこが正義でしょうか。イエスが現代に生きていたとしたら、さぞや嘆かわしく思われることでしょう。
 ことばは人を殺すこともあります。でも、絶望の淵にいる人に光を与えることもあります。宮沢賢治や中原中也の詩のことばは、私を失意の底から救い上げてくれました。ラスコーリニコフ、シンクレール、ホールデンらの物語は、「周囲に惑わされてはいけない。人生は比較のためにあるのではない。お前はお前の生を生きるために生まれてきたのだ」と私に教えてくれました。『デミアン』の「はしがき」には、こう書かれています。
 ……すべての人間は、彼自身であるばかりでなく、一度きりの、まったく特殊(とくしゅ)な、だれの場合にも世界のさまざまな現象が、
 ただ一度だけ二度とはないしかたで交錯(こうさく)するところの、重要な、顕著(けんちょ)な点なのだ。だから、すべての人間の物語は、
 重要で不滅(ふめつ)で神聖なのだ。だから、すべての人間は、とにかく生きていて、自然の意思を実現している限り、驚(おどろ)きと注目
 とに値する。すべての人間の中で、精神が形となり、生物が悩み、救世主がはりつけにされているのだ。
 あなたの物語は、あなたにしか書けません。ことばはあなたの生に意味を与え、人生をやり直す勇気を与えてくれます。文学を読むということは、ことばの持つ力を知り、人を生かすことばに出会い、自らの生のあり方を見出そうとする旅のようなものだと私は思います。

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【筆者】
坂 淳一 教授

中央大学文学部文学科英米文学専攻卒業 同大学大学院文学研究科英文学専攻博士前期課程修了
同大学大学院博士後期課程 単位取得満期退学
専門は英文学、英米文化
長野県短期大学講師、同短期大学助教授、同短期大学准教授、同短期大学教授
を経て現職


【学んだ専門用語】
超自我、イエス・キリスト、ファリサイ派、旧約聖書、新約聖書、福音書、神秘主義

【高校生・大学生のためのブックガイド】
天沢退二郎編『新編 宮沢賢治詩集』(新潮文庫、2024年)
大岡昇平編『中原中也詩集』(岩波書店、1997年)
『エリュアール詩集』安東次男訳(思潮社、1969年)
ランボオ作『地獄の季節』小林秀雄訳(岩波文庫、1938年)
ピョートル・ドストエフスキー『罪と罰』(上)(中)(下)江川卓訳(岩波文庫、2014年)
ヘルマン・ヘッセ『デミアン』高橋健二訳(新潮文庫、2007年)
J. D. サリンジャー『ライ麦畑でつかまえて』野崎孝訳(白水Uブックス、1984年)
(同書には、J. D. サリンジャー『キャッチャー・イン・ザ・ライ』村上春樹訳(白水社、2006年)という新訳もあり)
『聖書』新共同訳(日本聖書協会、1998年)