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教員リレーエッセー第3回『トリックスターからの贈り物』


高校生の頃、連れの友人と遊んで二人でスッカラカンになった。帰りの電車代もギリギリだったが、私は歩いて帰れる距離で、友人も何とか、多少の小銭くらいは持っているようだった。来週はまたバイトを探さないとなと思っていると、友人は「あ!俺、インスタント宝くじの当たりがあったんだ」と言って、サイフの中から200円の当たりクジを2枚、笑顔で取り出した。たかだか400円だが、彼は「これやるよ」、と2枚のカードを私に突き付けた。
戸惑った。なぜ俺にくれるんだ。「いいよいいよ...」私は断ったが、彼はいいからもらっときなと当たりクジを私に押し付けて、駅へと去って行った。世界観が揺らいだ。もし自分が彼の立場だったら、当たりクジがあったことに気が付いても、黙っていたかもしれない。あるいは口に出して、自分だけ少し助かった気分になっていたかもしれない。いやいや、連れのピンチだ。せめて半分200円ずつ分けて。だが彼は2枚とも私にくれたのだ。
この出来事は、私の記憶に深く刻まれた。大学に入って、政治学も経済学も、法学も社会学も、なんだか響かなかった私は、マルセル・モースの『贈与論』という本があることを知った。そこには「贈り物には贈った人の霊的な力が宿る。物は贈る人の人格の一部である。贈与の霊が持ち主の元に帰りたがるので、人間はお返しをしたくなる」といった説明があった。やっと知りたいことが書いてある本を発見した。

Arlecchino by Maurice Sand, 1860.

その後、どうやら『贈与論』は文化人類学と関りが深いということで、通っている大学の外で、文化人類学者、山口昌男先生の講義を受けた。だが正直に言えば途中で寝落ちしてしまった。ロシアの知識人や芸術家の話で、登場する場所も人物も作品もほぼ初めて聞く名前ばかり。さっぱりわからなかった。そして山口先生の著書『道化の民俗学』を読んでみた。こちらも言葉の意味すら掴めず、学問の世界の深さに眩暈がした。

大学院で学んでいた頃、その本に登場したイタリアの即興喜劇コメディア・デラルテを上演するミラノのピッコロ座が来日すると知って、私は電話で新宿文化センターのチケットを申し込んだ。どの席がいいかと聞かれ、どの席が空いているのか尋ねると、どこでも空いているというので、最前列を頼んだ。当日、主役のアルレッキーノのかすれた声、衣装の擦れる音、舞台の板の軋みに、これがトリックスターというものかと興奮した。

トリックスターとは、世界各地の神話に登場するキャラクターで、ヘルメスやロキ、コヨーテや野兎などが知られている。人々の常識的な世界観を揺さぶり、それまでとは違った世界の見方を切り拓く。イタリア喜劇の道化はアルレッキーノと呼ばれるが、フランス語ではアルルカン、英語ではハーレクイン。ピエロのイメージに寄せるとバットマンのジョーカーだが、彼はメンタルが重たく、トリックスターの暗黒面といったところ。トリックスターは見る人によって多義的に解釈され、自分の情緒を表に出さない。アルレッキーノは黒い仮面を着けている。サイレントムービーの喜劇役者バスター・キートンも作品の中では笑わず、ストーン・フェイスと称された。

Hermes: Guide of Souls. by Karl Kerenyi, 1986.

ギリシア神話のヘルメスは、生まれたばかりで揺りかごから抜け出し、アポロンが飼っていた神聖な牛の群れを盗みに出かける。サンダルを逆向きに履いて、牛を後ろ向きに歩かせるなど、足跡を偽装して洞窟に連れ込む。さらに世界で初めて「リラ(竪琴)」を発明する。翌日アポロンは激怒してゼウスへ訴える。裁きの場でヘルメスは自分は赤ん坊で何も知らないと説得的に語る。ゼウスは全てを見抜いており、牛を返すよう命ずる。ヘルメスは牛を返し、自作のリラをアポロンに贈る。アポロンはその美しい音色に感動してヘルメスと親しくなる。アポロンが返礼として贈った「カドゥケウス(伝令の杖)」は後にヘルメスの象徴となる。

現代の硬直した眼から見れば牛泥棒の赤ん坊だが、トリックスターはいたずら者であり、常識的なルールを揺さぶりながら、新しい価値を創出する。乳児でありながら瞬時に移動し、説得力のある言葉を紡いで、文化的な発明をもたらす。さらには贈り物を通じて新たな交流の回路を築く。後世のヨーロッパで錬金術は「ヘルメスの技芸」と呼ばれ、ヘルメスは旅の神、商業の神、市場の神、メディアの神になっていく。
私が山口先生から学んだことは、「現実は一つではない」ということだ。スペインの小さな街にはあまり駐車場はなく、誰もが狭い路上に駐車する。スペイン人の友人が縦列駐車をするとき、私は助手席で、後ろの車にぶつかった。「今、少しぶつかったかな」「そうだね」「大丈夫なの?」「何が?」「いや、傷とかついてないかな」「だって、バンパーが付いてるじゃん」。これで終わりだ。それどころか、自分の車を停める際に、前後の車に接触しながら押し出してスペースを空けることは珍しくないようだった。日本の事情を説明すると「日本人は車フェチなのか」と笑われた。
フェティッシュはもともとポルトガル語の「フェティソ」が語源で、「霊力が宿る物」という意味。それを宗教学の分野でシャルル・ド・ブロスが「フェティシズム」という概念で説明し、カール・マルクスは経済思想に置き換えて「商品フェティシズム」として、さらに精神分析の文脈でジークムント・フロイトが偏愛的なニュアンスで(これが日本で脚フェチとか眼鏡フェチとか)使ったという経緯がある。人間と物との関わり方について、ヨーロッパ標準のモダニティに対してユダヤのタルムード的思考が読み替えを求めるといった具合で、日本人の態度(例えば「針供養」や「のし袋」)を考えてみるのも面白い。
なぜって、日本で他人の車と接触するとこんなことになるからだ。以前スーパーで買い物を終えて駐車場に戻ると、隣の車の女性が声をかけてきた。「さっき私の車のドアを開けたとき、あなたの車を傷付けてしまったんです」。助手席側のドアを確認するとしっかりと傷が付いていた。だが古い車だし、修理する気もなかったので、「まあ、大丈夫ですよ。お気になさらず」と別れようとすると、「困ります!ちゃんと弁償させてください」と言う。スペインでゴムのないワイパーとか、破れてスポンジが飛び出したシートとか、フロントガラスにひびの入ったレンタカーなんかに慣れてしまったせいか、「いや、本当に、かすり傷なんで、ダイジョブ」と安心させようとすると、「私の気持ちが収まりません」と食い下がる。「そんじゃあ、洗車してから帰ろっかな」と水を向けると、「え!それだけでよろしいんですか!」と言って2000円くれた。誰かに迷惑をかけてそのままスルーすることは、日本人の美徳に反する。バチが当たるという考え方は、見えない存在から罰を受けるという意味で、贈与の霊の思考とよく似ている。
このような異文化を理解する技術について、文化人類学は100年ほど大学で研究してきた。世界は、文化は、実に多様である。身近なところでも、親であれ友人であれ、他人と気持ちが通じ合わないことはよくあることだ。そんなときは、誰かに自分をわかってもらいたいという気持ちを反転させて、自分が誰かをわかってあげる人間になってしまえばイイのだ。異質なものに触れたとき、自分の痛みを克服して、世界を愛するように理解する。そうやって異文化理解、他者理解が進めば、退屈で理不尽な目の前の現実を、少しは変えていくことができるかもしれない。そんなゼロに近い可能性に「賭ける魂」もトリックスターの愛嬌というものだ。
ゲーミフィケーションという手法がある。日々の単調な作業にゲームの要素を加えることで、継続的に楽しく取り組めるようにする工夫で、外国語学習アプリDuolingoなどが有名だ。だがゲームという要素には「競争」や「試合」のニュアンスが強く、スタンプラリーやポイント制度などが煩わしいと感じられることもある。ここにトリックスター的な遊戯性に満ちた感性を加えることはできないか。視点の移動、ユーモア、価値の転倒。勉強だって仕事だって、楽しくちゃイケナイということはない。なぜツマラナイことをツマラナイまま続けるのか。
ヘルメスの交換の多様性は現在、貨幣で等価性を計る市場経済が支配的だ。私が『贈与論』を繰り返し読んだのは、私たちが思いを贈り合う=思い遣る関係を築けるようになることを夢見たからだ。坂口安吾が言うように、自分も一人のラムネ氏(誰?)でありたいと願ったからだ。若い頃の私は、無償の贈与は市場経済のトリックスターになると思いながら経済人類学を勉強した。最近は「頂き女子」や「スパチャ」を眺めながら、詐欺の位相に取り込まれた贈与の霊がどんなトリッキーな動きをするのか考えたりしている。
トリックスターの流儀として、心から思ったことは隠さず、ごまかさず、嘘をつかず、正直に、誠実に発信すべきだと私は考える。だが未熟者はそうすることで、時に誰かを傷つけたり、怒らせたり、嫌がられたりするだろう。多くの人間と交流し、表現を嗜み、技術を磨き、異文化に身を沈めて、たくましい精神を身にまとう。数々の修行を潜り抜けて、いくつも傷を受けながら、ゆっくりとトリックスターの魂を引き寄せる。教壇に立つときには特にその気持ちを信じている。秩序への違和感が生まれ、世界の見方が変わり、新しい世界が現れる。その刺激を作り出すことがトリックスターとしての私の仕事だと思っている。
なんつって粋がったところで、私もまた教師役の未熟者に過ぎない。アルレッキーノにあやかろうと、パッチワークの衣装に呼応する革のカバンを愛用している。あるいはビートたけしを生んだ関東の笑いの聖地、浅草。その原点であるエノケンが活躍した劇団カジノ・フォーリー。さらにそのオリジナルであるパリのフォリー・ベルジェールの街頭ポスターを部屋に掲げて、頭の固いツマラナイ大人にならないように、自分を戒めている。

TRION社のレザーバッグ
https://youtu.be/ppuZg72kJnA

Folies-Bergere, reprint poster
by Jules Cheret, 1876.

この文章には、一度読んだだけでは視えにくい世界への入り口が仕掛けてある(例えば「太陽の塔」の岡本太郎はマルセル・モースの教え子だったりとか、私が大学院の担当科目に「人類学的思考」という看板を掲げる理由だとか)。ポストモダン思想は「読むたびに新たな意味が立ち上がる」、「読んだ人間の世界観を揺さぶる」ような読み物を「強度(intensity)のあるテクスト」などと言うが、一義的な世界を志向するモダニティの学校教育と相性が悪いのは当然だ。だがそんな知のラビリンスに興味があるなら、私が『道化の民俗学』に挑んだように、自力で世界を散策して、独自の世界観を切り拓いていくことを推奨したい。

ある夏、私は東京の大学で6日間の集中講義を引き受けた。とても暑く、宿泊したホテルから大学まで歩くだけで汗だくになった。そんなこともあり、私はアロハシャツ(ハワイ製)に短パン、サンダルという格好で、社会人学生たちの前に立った。私を見る眼が「この講師はハズレだな」と言っているようにも見えたが、いつものように文化人類学を講義した。最終日、一人の学生が書いたリアクションペーパーが私の胸に響いた。

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【筆者】
織田 竜也 准教授
慶應義塾大学大学院社会学研究科博士課程単位取得退学 修士(社会学)
専門は文化人類学
長野県短期大学多文化コミュニケーション学科助教、准教授などを経て現職
【学んだ専門用語】
贈与の霊、トリックスター、フェティッシュ、ゲーミフィケーション、強度のあるテクスト

【高校生・大学生のためのブックガイド】
植島啓司(2008)『賭ける魂』(講談社現代新書)
岡本太郎(2015)『日本再発見』(角川ソフィア文庫)
栗本慎一郎(2013)『経済人類学』(講談社学術文庫)
坂口安吾(2012)『ラムネ氏のこと』(青空文庫)
中沢新一(2009)『純粋な自然の贈与』(講談社学術文庫)
マルセル・モース(2009)『贈与論』(ちくま学芸文庫)
山口昌男(2009)『学問の春』(平凡社新書)